名古屋から与那国に移り住んで20年以上、数年前に突然与那国語で話すようになった村松さんの作文「しまくとぅばの日に寄せて」が、9月25日の八重山毎日新聞に全文与那国語で掲載されました。ことばの研究者や、他の島の若い人たちの励みになる文章だと思ったので、同じ内容を話してもらって動画にしました。どうやってしゃべれるようになったのか聞かせてもらったインタビューと合わせて紹介します。
その2 インタビュー
村松さんはどうやって与那国語が話せるようになったのか?聞き手は山田真寛です。
村松 稔(むらまつ みのる)
1977年生まれ。名古屋出身。長距離ランナー。
高校卒業後すぐに与那国に移住。2002年からアヤミハビル館(島の生き物の資料館)職員、2012年から与那国町教育委員会で社会教育文化財担当。
―村松さんは何年生まれですか。
1977年。
―出身どこですかって聞かれたら、どう答えてますか。
名古屋です。
―高校まで名古屋ですか。
はい。
―高校卒業してすぐ与那国に来たんですよね。
すぐ来たね。4月に来てるから。
―まっすぐ与那国に来たんでしたっけ。
うん、まっすぐ来た。
―与那国に来たのはどうしてですか。
ま、沖縄にね、離島に来たかった。沖縄本島でもよかったんだけど、琉球に来たくて。琉球の昆虫に興味があるからね。
でも何の縁もなくて、琉球大学を受けたけど、そこはまあ落っこちて。で、虫の知り合いの中で与那国に知り合いがいるっていう人がいたから。
―来てすぐアヤミハビル館*で働いたわけじゃないんですよね。
ううん、ハビル館ができたのは2002年だから、それまではそのときそのときある仕事。で、ハビル館の準備から声かけてもらって準備委員会みたいなののメンバーになって、ハビル館ができたら僕がそのままおさまった。
*島の生き物について学べる資料館。アヤミハビルは、世界最大の蛾「ヨナグニサン」の与那国語名。
―それから今の教育委員会のしごとですか。
そう、ハビル館に10年いて、そのあとの2012年の4月から教育委員会の採用になって、社会教育文化財担当。公民館*とか、生涯学習とか、学校以外のこと。ハビル館もそうだし。
*祖納東、祖納嶋中など、地区ごとの組織。神事や芸能も公民館単位。神司が不在となってから、与那国ではドゥムティ(公民館長)とダグサ(公民館役員)が神事を行っている。
―何年か前の豊年祭の司会で、いきなりほーげん*で話し始めた、という感じですか。
うん、やってみた。3年前かな。奉納芸能をやるときの司会でね。
*琉球諸語のひとつ与那国語のことを、島の人の言い方にならって(日本語与那国方言の語彙として)「ほーげん」と表記します。
―司会はその前からやってたんですか。
うん、まあ、教育委員会で公民館を担当しているから。ほんとは各公民館で役員がやればいいことだと思うけど。
―3年前に、司会をほーげんでやろうと思ったきっかけは、何かありましたか。
そのときもう『どぅなんむぬい辞典』の編集委員会をやってたと思うんだよね。それでたくさん勉強して、辞典を見ながらだったらじぶんの思いを作文できるようになり始めてたかもしれない。でもこれを声に発するっていうのはやったことがなくて。
ほーげんでやるって、誰にも言ってなかったんだけどね。ジカタ*をやってる田頭さんなんかが、すごい喜んでくれて。ないがら(今から)始める、みたいなことを言ったとき、歓声がおこったんだよね。
*踊りのときなどに演奏する三線などの楽器の演者。
―やってみたら、人にも喜んでもらえて。
毎月の辞典の編集委員会で、知識が一気に増えた感じでしょうか。
『どぅなんむぬい辞典』の項目にはほとんど例文がついてるでしょう。この例文を編集委員会でチェックしてったじゃない。それで一つずつ「ああ、これはこういうふうに言うんだ」とか。
あとは、辞典の前につくった『どぅなんむぬいカルタ』ね。カルタに選ばれたものだけじゃなくて、新村さんの本*にあったことわざをぜんぶ三段表記*したでしょう。あの頃から、わからないことばは辞典を引きながら、完璧じゃなくても、言いいたいことがわかってもらえるようになってきてたと思う。
*新村政二.1994.『与那国 人と暮らし』私家版.与那国語のことわざが大量に記録されていて、ここから抜粋したものを2014年度に教育委員会が制作した『よなぐに方言カルタ』に使用した。
*意訳だけでなく、分かち書きした原語に逐語訳もつけた三段で表記する、言語学の論文などで一般的な表記方法。島の人たちがほーげんを記録・学習するときにも便利なので、カルタの原稿制作時や読み札にも使ってもらいました。
例えば僕が書いたものなんかが多少間違ってても、島の人が見て、こういうことを言いたいんだなってわかってもらえるくらいにはなったってことね。
そのときに、「ここは違うよ、こういうふうに言うんだよ」って。怒るんじゃなくて教えてほしいっていう思いに、このときの体験がつながるんだけど。
―「しまくとぅばの日に寄せて」で言ってたことですね。
人が言ってることがけっこうわかってきたなって思ったのは、いつ頃だったかおぼえてますか。
人からは「ほーげんわかるだろ」って前から言われてたけど、ほんとにわかったのは、辞典の編集委員会が始まってからだよね。これはこういうふうに変化、活用して言ってるんだなとか、そういうのがわかったら、一気に聞けるようになった気がする。
―僕もその感覚わかります。理解度はなめらかに高くなるんじゃなくて、あるとき一気に上がりますよね。
ああ、こういうことかって、もう一気にいろんなものがつながった感じ。
―そう、ばらばらだったのが整理されていって。辞典の編集委員会をやって、語彙も同じように一気に増えた感じがしましたか。
どうかな。今でもやっぱり語彙は足りないと思うよね。司会なんかではだいたい決まったことをしゃべるじゃない。だけど日常会話とか、新しいことを表現したいと思ったとき、ことばが、語彙が足りないなと思う。でもいざ調べてみたら知ってることばで、まだそこがつながってなかったんだなって思うときもある。
語彙数は自然と増えてると思うけどね。編集委員会ではいっぱい語彙を集めて見てるわけだから。その中で知らないことばもたくさんあったし。でもことばってたくさんあるから、今でももっと語彙があればいろんな表現ができるのにって思う。
―これまで標準語で話してた人たちともほーげんで話すようになりましたか。
うん、島の人がほーげんですごいしゃべってくるようになった。
―ああ、もう村松さんはしゃべれるんだって認識されたから。いいですね。
当たり前にほーげんで、電話とかでもそうだよ。
石垣でもあったよ。「しまくとぅばの日に寄せて」が新聞に載ってさ、バスとかに乗ったら、知り合いの与那国出身の人が乗ってきたんだよ。そしたら「新聞見たよー、今はしゃべれるんだー」とか。ぜんぶほーげんで最初からしゃべってきたから。
―うれしいですね。
ま、ほんとに話せるかどうか試してるとこもあったと思うんだけどね。
―与那国語の動詞活用は超絶複雑ですが、これに特化して勉強しましたか。それとも自然に使えるようになりましたか。
自然にって感じかな。あの活用表*とかを見ると、なるほどって思うけれど。
*山田真寛.2017.「与那国語の動詞形態論」で発表した動詞活用表。島の人に配ったり勉強会みたいなところで使ったりしました。
―今までいろんな形式を聞いてきたから自然に。覚えてるものの中から使ってるって感じですか。
そんな感じだと思う。
―あんな複雑な活用体系なのにそんなことできるんだ…。僕は村松さんと比べると聞く量がぜんぜん少ないから、ほんとに機械的に活用させてますよ。
うん、あー機械的だなって感じるときはあるよね。
―そうですよね。村松さんの「しまくとぅばの日に寄せて」の作文読んで、とっても「流暢」だと思いました。一つ一つのことばは僕でもわかるけど、じぶんではこういう表現できないなっていうのがたくさんあって。
なんかね「与那国の人の表現」ってあるでしょう。それは、僕はある程度わかってきたかなと思う、ぜんぶはわからないかもしれないけど。例えばつやこさんなんかが何か書いたときに、日本語をそのままはめてある感じがするんだよね。与那国の人はそういう言い方しないんじゃないって思うときが、よくある。
―僕がしゃべったり書いたりしたものもそうですよね。この溝はきっと埋められないなー。
そこはね、僕はここにいて。与那国のことば以外を知ろうとかも思ってないし。
―村松さんがしゃべりはじめるまでは、みんなほーげんで話しかけてたわけではないですよね。
うん、「これわかるか?」って聞かれるときとかはあったりしたけど。
―自然に動詞を活用させたり母語話者の言い回しみたいに表現できるようになるまで、どうやってインプットを蓄えたんですか。
聞いていたよね。公民館の行事とか祭りごとのときとかは、もうみんなほーげんだから。
―そうか、そういうときに先輩方どうしがほーげんで話してるのを聞いて。
そう、じぶんが飲むのが好きだから、酒飲む席にはいつもいるんだけどさ。じぶんの父親世代、60とか70とかの人たちとけっこう付き合ってて、そこにいるんだよね。
―そういう場で蓄えてきたんですね。すばらしい。
まあでも、日常的にしゃべるのはやっぱむつかしいね。
―僕もよくどうやってしゃべれるようになるのって聞かれるんですけど、僕のことばの覚え方は言語学者の特殊なやり方だからあんまり参考にならなくて。
公民館、祭りごと、酒飲む場所。そういうところにふつうに座ってることだね。お客さんみたいにいるんじゃなくて。
―『与那国の人とことば』*に載せることばは、どんなのがいいですか。
さっき僕がしゃべったみたいにして、もし子どもたちに向かって話すんだったら、「学芸会とかのときだけに使うことばじゃないよ。じぶんの思いをぜんぶ表現できるのものが、どぅなんむぬいだよ」っていう感じがいいかな。
*山田真寛,森澤ケン『与那国の人とことば』。2016年から毎年つくっているモノクロポートレートとことばの冊子。5冊目の2020年版に村松さんが登場予定。
―すばらしい。特別なときだけに使うものじゃない、ふだんふつうに使うことばだっていうのは、ほんとうに伝えたいですよね。
うん、学芸会とか芸能やるときとかは、やっぱり日常じゃない特別なときでしょう。だからもう、じぶんの思ってることをぜんぶ表現できることばだよっていうのを。「どぅぬ うむい ぶーる ひょーげん きらりる くとぅばど」みたいな感じかな。「がくげーかいぬ ばすばがい ‘くー くとぅばや あらぬん」みたいな。
―じぶんの思いをぜんぶ表現できることば、っていうのがいいですね。
そう、特別なときにだけ使う特別なことばじゃなくてね。
トップ画像撮影:Ken Morisawa
(豊年祭の画像は村松さん提供です)
与那国語のこと
島の人たちが「どぅなんむぬい・どぅなんくとぅば」や「ほーげん」と呼ぶ島のことばは「日琉語族-琉球語派-南琉球語群」に分類される琉球諸語の一つです。日本語諸方言や他の琉球諸語と同じ祖語「日琉祖語」から分岐した言語ですが、長い歴史変化を経て現在の与那国語の文法体系を獲得しました。
ユネスコは2009年に、与那国語を含むすべての琉球諸語を「いま何もしなければ」なくなってしまう「消滅危機言語」として報告しています。